特徴等
喜多院は、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願寺・無量寿寺の一子院 (北院=仏像院) であったが、慶長4年(1599)に天海僧正が住職となり、その後家康の厚い信任を得て寺観を整えていった。しかし、寛永15年(1638)の川越大火で山門以外の堂宇はすべて消失し、現在の建物はその後に再建されたものである。庫裡、客殿、書院、慈眼堂、鐘楼門及び山門が重要文化財に指定されている。
庫裏は客殿、書院と同様、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したもので、渡り廊下で客殿と書院につながっている、桁行十間・梁間四間の母屋、桁行四間・梁間三間の食堂、それに玄関と広間が付いている。母屋は一端が入母屋造、他の端は寄棟造になっていて、食堂は一端が寄棟造、他の端は母屋につながっている。すべてとち葺形銅板葺で、母屋には一部に中2階がある。現在、拝観者の入口となっている。
参考資料:現地の説明板(埼玉県教育委員会/川越市教育委員会)/総覧日本の建築(日本建築学会編/新建築社)/国指定文化財等DB(文化庁)
2007-1-16
喜多院庫裏 (撮影:2005-7) 喜多院庫裏 (撮影:2005-7)
       
       
       
       
    埼玉県の重要文化財建造物     2018-1-15 現在
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番号・名称 年 代   構造等
19 喜多院
庫裏
寛永15年
(1638)
母屋:桁行十間、梁間四間、一重、一部中二階付、一端入母屋造、他端寄棟造、とち葺形銅板葺 食堂:桁行四間、梁間三間、一重、一端寄棟造、他端母屋に接続、とち葺形銅板葺
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喜多院庫裏 (撮影:2005-7) 喜多院庫裏 (撮影:2005-7)